【ゾンビ特集】何故ゾンビ映画はこれほどまでに人気モンスター映画になり得たのか。第1章[ゾンビの変遷]

ゾンビ映画というのは異例の人気を誇り、他のどのモンスター映画とも一線を画す歴史の長さ、劣らない製作数がある。このゾンビという映画ジャンルを『ドラゴン退治の物語』というキーワードとともに、人気ななった理由というものを考察していこうとするのが、この【ゾンビ特集】である。今回はまず、いかにしてゾンビが今のモンスターになったのか、その変遷を詳細に辿ってゆく。

三種類に分けられるゾンビ達


 まず、ゾンビ映画と聞いて一般的に思い浮かべるのはいわゆる「モダンゾンビ」だろう。モダンゾンビとはウイルスなどによる感染系、人肉を渇望するカニバリズム性、噛まれればその人もゾンビ化するといった有名なゾンビ像のことである。しかし、ゾンビの起源は今のそれとは全く違ったもので、もはやモンスターでもなかったのだ…

1.ヴードゥーゾンビ

 ゾンビの元はヴードゥー教の呪術が起源だとされている。つまり、ある者が私欲のために死者を生き返らせ従わせる、そういう奴隷的な存在がゾンビだったのである。当時ハイチを訪れたアメリカ人が、その不気味な宗教に興味を持ち小説にしたのが今のゾンビブームの始まりだった。ヴードゥー教について『サンゲリア(1979)』という映画では『スペイン人の持ち込んだカトリックと、奴隷制から逃れようとした黒人が発端だ』と語られる。そして、今まで支配下にいたはずの黒人が自由になりたいという意思の元に誕生したその宗教は、白人が嫌がり、恐れたことは言うまでもない。世界初と言われるゾンビ映画『White Zombie(恐怖城)(1932)』では白人の科学者によって労働力として従事させられるゾンビが出てくる。この時点でゾンビはただの脇役でしかなく、主人公は 呪術を操る人間その人なのだ。こうして身勝手で傲慢な悪事が描かれた本作は、当然その悪事を賞賛さえしないものの、奴隷制の影を匂わせた。
また興味深いのは、この時点でのゾンビ映画ではアメリカ本土での大パニックがそう多く描かれないということだ。何らかの目的があり、主人公が異郷の地へ赴く、そうするとそこにはゾンビがいて襲われるというプロットが多い。これはかつてのアメリカそのもので、土地を開拓しそこに犠牲を伴いながらも建国を果たしたアメリカらしいプロットである。つまり、恐怖の対象はあくまで 未知の土地であり、その恐怖は本国アメリカまでには迫ってこない。そしてその異郷の土地に赴くことは恐怖であるのと同時に、勇敢であることの証明でもあるのだ。しかし、現代アメリカでは恐怖はテロとして街のどこにでも存在しうる…それは確実にゾンビ映画にも反映されているのだ。詳しくは後述のシンボルゾンビで。

オススメは『私はゾンビと歩いた(1943)』『黒沢 清監督 推薦』と銘打たれたこの作品はやはりゾンビよりも他に恐怖の対象を向けるエンディングが待っている。今とは一風変わったオシャレなゾンビ映画をぜひ一度ご覧あれ。

2.モダンゾンビ

我々になじみのあるゾンビはこのいわゆるモダンゾンビに分類される。これはジョージ・A・ロメロ監督による68年の『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』から確立されたゾンビの全く新 しい解釈、設定によるものだ。起源であるヴードゥーゾンビとの共通点は「生ける屍」という点だけである。それ以外は一切と言っていいほどの関連性はない。しかしながらこれほどまでに浸透したのは「モンスター」としての汎用性の高さ、さらには今までにない個体の虚無感、アイデンティティのなさが受けたのだろう。フランケンシュタインやドラキュラのように確固たるバックボーンがないのがゾンビである。その存在理由も、生存条件さえも特定されず、ただそれが生ける屍で、人肉を求める存在ならばゾンビになりうるのだ。そうして無限に増え続けるゾンビという怪物は確実に生活を崩壊させ、人間性を破壊する。特に今の我々が生きる大量消費社会の中には無駄なものが山とある。そんな無駄なものに囲まれた私たちの生活そのものがすでに、ゾンビが描かれる映画世界との共通点なのである。

オススメはやはりゾンビ大流行の歴史を作り上げた記念すべき作品『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド(1968)』モンスターと化したゾンビ初登場をぜひ。

3.シンボルゾンビ

ひとえに最近のゾンビ映画と言って「モダンゾンビ」とくくるのは難しいだろう。というのも、かつて世間を沸かせたゾンビ映画が、その残虐な描写によるスプラッター映画独特の不気味さ、恐ろしさから成る「モンスター映画」だったとするならば、2000 年以降の映画に出てくるゾンビはもっと象徴的である。つまり、ゾンビそのものを描くというよりは、ゾンビが発生した世界に生き る普通の人たちをフォーカスした映画が多くなってきたということだ。ここではモダンゾンビとの違いを分かりやすくするために、「シンボル(象徴)ゾンビ」と呼んでおく。その分かりやすい例が2010年より放送が始まった大人気ドラマ『ウォーキング・デッド』だ。どれだけゾンビを恐ろしく描けるか、よりももっと人間の恐ろしさにフォーカスを当てている。劇中幾度となく出てくる「一 番怖いのは人間よ」というセリフがそれを物語っているのに加え、かつてのように独特なゾンビが出てくるわけでもない。そこで描かれるのはゾンビパンデミックにより秩序が崩壊した世界で生きる人間VS人間の様子。つまり、ゾンビ発生に慌てふためく瞬間を描くよりは、その一ヶ月後、時に2年、3年後の世界を描くようなものなのだ。こうして「ゾンビ映画」というものを三つに分けてみると、時代に沿って少しずつ変わってきているのがよくわかる。ゾンビというものが誕生した 訳が、自由になりつつある黒人に対する白人の恐怖心の払拭にあるとするならば、ゾンビというジ ャンルの映画は今、どんな対象を恐怖としているのだろうか。

ちなみに、最近では珍しいヴードゥーゾンビをベースにしながらもモダンゾンビのパンデミック性をも兼ね備えた【新旧全部盛りゾンビ映画】が『ゾンビガール』Netflixで観れるので是非。

切っても切り離せないゾンビと黒人奴隷の歴史


 さて、このヴードゥーとモダン間の変遷は当時のアメリカ社会をわかりやすく反映しているのが面白いところである。上記の通りゾンビの起源はヴードゥの呪術である。そしてその儀式は罪人などに対する刑罰として行われていたと考えるのが妥当だろう。冒険家のウィリアム・シーブッルックが著した『マジック・アイランド』には確かにゾンビらしきものを見たという記述があるが、さとうきび畑で見たというそのぎこちない動きの労働者がただ疲れていただけとも言いえるのは間違いないのだ。実際にゾンビは確認されておらず、儀式に使うゾンビパウダーの効力も当然ながら懐疑的である。そうしたことから「ゾンビ伝説」はある種の抑止力の役割をしていたものと思われる。ブードゥには確実にあるそのゾンビ伝説とシーブルックが見たものがゾンビではないとするならば、それは宗教上の戒律を守らせるための「恐怖」によるおとぎ話とするのが最も納得のいく説明であろう。例えば日本でも、「霊柩車が通った時に親指を隠さないと親の死に目に会えなくなる」などのジンクスがあるように、ハイチ等のヴードゥの根付く土地では「罪を犯すとゾンビにされて一生奴隷になる」というような迷信として秩序を守る役割をしていたものと思われる。これがゾンビの起源である。罪人に対しては「死ぬこと」で立場、人格を否定し、薬物によって意思を奪い抜け殻の奴隷として扱う。そしてその「恐怖」はブードゥ教を信ずる多くの黒人にとっては何よりも強力なものだった。「奴隷にされる」ことの恐怖を当時一番知っていた黒人が自由を求めたためにできた宗教だということはとても納得がいく。彼ら黒人にとってはゾンビになるという脅しは決して迷信ではなかった。奴隷制度によって白人に労働を命じられた黒人にとってその状況は尊厳を奪われることであり「死ぬこと」であった。つまりは奴隷制度こそがゾンビの起源だと言っても過言ではないのだ。そういう意味では、シーブルックが見たものはもしかすれば本当にゾンビだったのかもしれない。彼らの労働が一体どういう状況で行われていたのかを知ることができないのでなんとも言えないのだが。
 
 しかしながら、A.ロメロという映画監督が常識を覆し新たなスタンダードを作り出した。今や、ゾンビは奴隷ではなく虚無感に満ち満ちながらも、生者を食らうモンスターとなった。そしてその きっかけとなった作品『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が公開されたのが1968年。マー ティン・ルーサー・キング・ジュニアがあの有名な演説で“I have a dream”と訴えかけたのが1963年である。今までは奴隷という制度が当たり前でさえあったその土地で改革が起こったのだ。 つまり、A,ロメロが提示した新たなゾンビ像というものは、決して偶然ではなく明らかな必然であったのではないだろうか。ゾンビの起源とモダンゾンビの間には大きなギャップがあるように見えるが、当時のアメリカが迎えた現状をそのままゾンビ映画でも迎え入れただけに過ぎない。ヴードゥの呪術的な要素に少なからず不気味さを覚え恐ろしくなったアメリカ人はブードゥ教のゾンビ伝説をテーマとして小説にし、映画にしたのだ。恐怖を封じ込める方法として古代より繰り返されてきた「ドラゴン退治の物語」によって未知で強大なドラゴンという存在を作り上げ制圧した。やはり「ゾンビ」こそが現代のドラゴンなのである。

ゾンビ特集は第二章へ続く。。。

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